今回は、車いすバスケットボールの北田千尋(きただ ちひろ)選手を紹介します。
パリパラリンピックでは車いすバスケ女子日本代表キャプテンとして活躍しました。
障害者の立場から講師として講演会も行う北田千尋さん。
北田千尋さんがどのようにして現在の地位にたどり着いたのか、病気や障害との闘いを交えながら見ていきましょう。
北田千尋(バスケ)病気は生まれつき?幼少期、小学生時代!手術はしたの?
北田千尋さんの病気は生まれつきです。
小学校6年生のときに日常生活に支障はないから手術はしないとの判断を両親がしました。
北田千尋選手はどのようにしてバスケットボールの道に進んだのでしょうか。
まずはその幼少期から振り返ってみましょう。
1989年1月12日、和歌山県橋本市で生まれた北田千尋さん。
幼い頃から健康上の課題と向き合わざるを得ない生活を送っていました。
3歳の頃から気管支喘息を患い、病院と自宅を行き来する日々。
こうした生活は、北田千尋選手にとって身体的な負担だけでなく、精神的にも大きな試練だったことでしょう。
さらに、北田千尋選手には生まれつき股関節に問題がありました。
先天性股関節脱臼(せんてんせいこかんせつだっきゅう)という症状があり、これが原因で足に痛みを抱え続ける生活を送っていたのです。
こうした背景から、北田千尋さんはスポーツよりも読書に親しむ幼少期を過ごしていたんですね。
身体を自由に動かせないことは、彼女にとって大きなストレスだったのではないでしょうか。
しかし、北田千尋選手は小学生時代にスポーツへの興味を持ち始めます。
ただ、喘息や股関節の問題が彼女の活動を大きく制限していたとのこと。
スポーツが思うように楽しめなかったことは、北田千尋さんにとってかなり辛い体験だったのではないかと思います。
それでも、この幼少期、小学生時代の経験が、後の車いすバスケットボール選手としての道を選ぶきっかけになったのかもしれませんね。
北田千尋(車いすバスケ女子日本代表)のさらなる病気とは?どんな中学、高校時代を過ごしていた?
中学時代になると、北田選手はバスケットボール部に入部します。
しかし、ここでも北田千尋さんを待ち受けていたのは、身体の限界でした。
先天性股関節脱臼だけでなく、進行性の末梢神経障害(まっしょうしんけいしょうがい)である多発ニューロパチーという病気にも悩まされていたのです。
この障害は両下肢に影響を及ぼし、徐々に走ることが困難になっていきました。
「選手として続けるのは難しいかな」と感じながらも、それでもバスケットボールへの情熱を捨てられなかった北田千尋選手。
この時期にコートを去らなければならなかったのは、彼女にとって何よりも辛い決断だったことでしょう。
しかし、その後も北田千尋さんのバスケットボールへの愛が消えることはありませんでした。
高校進学後もバスケ部のない学校を選びながらも、自らバスケ部を立ち上げ、初心者に教えるなどしてバスケとのつながりを保ち続けました。
私自身、北田千尋さんのこの姿勢にはとても感動します。
困難に直面しながらも、自分の好きなことを諦めず、続けるための道を模索する姿勢こそが、彼女を今の場所へ導いたのでしょう。
バスケットボールへの北田千尋さんの大きな愛が伺えますね。
北田千尋と車いすバスケの出会い?病気への理解・大学時代のインターンシップが人生の転換期に!
北田千尋さんはインターンシップで車いすバスケットボールに出会います!
高校を卒業した北田千尋選手は、教員免許を取得し、バスケットボール部の顧問になることを目指して大学へ進学。
彼女は、学校の先生となり、次世代の選手たちを指導する夢を抱いていました。
しかし、運命は北田千尋さんにもう一つの選択肢を示します。
それが車いすバスケットボールとの出会いでした。
大学時代、障害者スポーツセンターでインターンシップを行った際、北田千尋選手は初めて車いすバスケットボールという競技に触れます。
「走れなくてバスケができなくなったのなら、車いすに乗ればできるよ」
引用“パラスポ+!”
このように言われ、彼女の人生が大きく動き始めました。
それまで車いすバスケットボールの存在すら知らなかった北田千尋選手です。
自分がその競技に該当する障害者だという認識すら持っていなかったんですよ。
それだけに、初めて競技用車いすに乗ったときの感動は、格別だったことでしょう。
当時の北田千尋さんの言葉には、再び夢を追いかける喜びがあふれています。
「なんかもう走れることが嬉しくて。もう1回選手としてコートに立てるんやって」
引用“パラスポ+!”
私も、このエピソードを聞いたとき、目の前がパッと明るくなるような気持ちになりました。
新たな道が開ける感覚、それは北田千尋さんのこれまでの辛い経験を吹き飛ばすようなものであったのではないでしょうか。
北田千尋(バスケ)は病気を乗り越え、社会貢献!障害者としての講師・講演会での活躍は?
車いすバスケットボールと出会った北田千尋選手は、すぐにその世界にのめり込んでいきました。
彼女はクラブチームに入り、本格的な競技生活をスタートさせます。
その後、北田千尋さんは関西の強豪チーム「カクテル」に所属。
全日本女子選手権で6回の優勝、4回のMVP受賞という輝かしい成績を収めました。
2014年からは女子日本代表に選出されています。
2021年の東京パラリンピックではチーム内最多得点をマークするなど、日本代表としての地位を確立しました。
北田千尋さんが得た成功は、決して彼女自身のためだけでなく、多くの人々に希望と勇気を与えるものでした。
北田千尋選手は、講師や講演活動を通じて、自身の経験を語り、次のようなテーマでメッセージを発信しています。
「ともに生きる」
引用“コ~エンプラス”
私自身も、彼女の講演を聞いて、障害の有無にかかわらず、共に生きることの大切さについて深く考えさせられました。
北田千尋さんの講演は、京都市や同志社中学校など、さまざまな場所で行われていて、多くの人々に影響を与えています。
さらには、テレビやラジオなどのメディア出演も積極的に行っているんですよ。
障害者スポーツの魅力や、多様性を受け入れる社会の実現に向けたメッセージを伝え続けています。
北田千尋(バスケ)の病気は?東京パラ・パリパラへの挑戦にフォーカス!
2021年東京パラリンピック。
32歳で初めてパラリンピックの舞台に立ちった北田千尋さん。
チームの中では年長者の一人として、若手選手たちをリードする立場にありました。
東京大会での活躍は目覚ましく、日本代表チームの中心選手としてその存在感を示しました。
東京パラリンピック後、北田選手は日本代表のキャプテンに就任。
さらなる責任感を持ってチームを率いる立場となったんですね。
北田千尋さんが持つリーダーシップは、チーム全体の成長に欠かせないものであり、その影響力は大きいと言えるでしょう。
北田千尋選手の2024年パリパラリンピックでの活躍は記憶に残りましたよね。
パリ大会に向けて、彼女は体格の大きな海外選手と渡り合うため、男子選手と練習に取り組むなど、フィジカル面の強化にも力を入れました。
北田千尋さんの持ち点は4.5というハイポインターで、ガードやフォワードのポジションをこなすことができます。
これにより、北田選手はチームにおいて非常に重要な役割を担う選手となっています。
2024年のパリパラリンピックでは、北田選手は35歳。
その豊富な経験とリーダーシップでチームをまとめ、さらなる高みを目指しました。
北田千尋さんがこれまで乗り越えてきた病気や障害。
そしてそれらを糧にして築き上げた強さは、彼女自身だけでなく、多くの人々に希望と勇気を与え続けています。
こちらで車椅子バスケットボール日本代表メンバーを詳しく紹介しています!
北田千尋(車いすバスケットボール)まとめ
生まれつきの障害と戦う北田千尋さんは、和歌山県出身の車いすバスケットボール選手。
その道のりには多くの困難がありましたが、それを乗り越えてきた強い意志と情熱を持っています。
北田千尋さんの挑戦は、単に競技の枠を超えて、私たちにさまざまな気づきを与えてくれます。
病気や障害に打ち勝ち、自分の好きなことに全力を注ぎ続ける姿勢。
それがどれほどの困難を伴うものであっても、彼女は決してあきらめず、前に進み続けてきました。
その姿から、北田千尋さんのファンも多くの勇気をもらっています。
今後、車いすバスケットボール競技で北田選手がどのような活躍を見せてくれるのか、非常に楽しみです。
そして、彼女の挑戦が、多くの人々にとっての希望の光となることを願っています。
私たちも北田千尋さんの歩みを応援し続け、一緒にその感動を分かち合いましょう。
北田千尋選手の未来に、さらなる輝かしい成果が待っていることを信じています。
これからの彼女の活躍が、ますます楽しみでなりません。
私たちも、彼女の挑戦に注目し、北田千尋さんが見せてくれる新たな感動を共有していきましょう。
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